8月 2011

現在、8月 2011 に投稿された記事の月間アーカイブを表示中です。

第5回報告会&研修会

明日9月1日(木)AM10時より、沖縄県那覇市の船員会館にて
先頃行われた「第3回心のふれあいサポート」の報告会が行われます。
福島県相馬市での活動や、その後の現地の状況、また今後の活動予定
などが主な内容になっています。


報告会が終わり次第、渡嘉敷島へフェリーで渡り、2泊3日の予定で、今後の
ボランティア活動に参加される方々の研修会が行われます。


研修会講師 : 豊田 勝義  音野 大志

移送最終日

3月21日

残っているのは、ベッドから動かせない重篤な患者さんたちである。
自衛隊が、昨日と同じタイプの車両を10台近くも用意してきてくれ、病院の前にずらりと並んでいた。移送初日から比べると、一時避難していた医師や看護師さんをはじめ、ボランティアの人、われわれのチームの人数も増えていた。われわれも慣れてきていたので、良い連携が取れて作業はスムーズだった。患者名簿の把握と移送順の指示、各フロアからの1階までの患者さんの移動、ベッドから担架への移し作業などを手分けして行った。今日も自衛隊の人たちは動きも素晴らしく、すごい速さで移送作業を進めていった。


14時30分
移送が始まって3日目。やっとすべての患者さんが移送されていった。この病院の医師、看護師、事務の方たち、自衛隊、救急隊員、警察、ボランティアの方々、すべての人たちの協力があって成し遂げることができたことだ。一人ひとりが使命感を持って、少しでも早く患者さんたちを医療設備の整ったところに移そうと頑張った。ホッとしたが、最後にお一人だけ残っていた。今朝になって亡くなられた方だ。
納棺して病室から1階に降ろし、お見送りをした。患者さんのいなくなったこの病院は、病院としては一時閉鎖することになった。









数回にわたりお伝えした今回のレポートは、6月に出版された「フクシマ 3・11の真実 植田正太郎著 ゴマブックス」より、掲載させて頂きました。この著書には、大震災直後の相馬のことや、なぜチームの面々がこの活動を行うことになったかが詳しく書かれています。



はじめは、「1週間か10日間くらいボランティアして終わればいい」くらいの気持ちでいたのだが、でも行って見てしまうと、もう止めることはできない。
この活動の後に避難所を回って被災者の方たちの声をうかがうことで、いかにこれからの「心のケア」が大事かということを思い知らされた。個人で何とかしたいと思っても、どうすればいいのか道筋がわからないのが普通だが、幸い、相馬に縁の深い川嶋さんがいらっしゃるお蔭で、地域と直接連絡を取ることができる。統制の取れたチームとして地元の人と連携できることに、可能性を感じる。(豊田 談)

前回へ





今後の活動予定

10月以降の活動予定を更新しました。
「スケジュール」で確認してください。

移送2日目

3月20日



この日、前日までの予定では、残る患者さんたち全員を移送するはずだったが、情報が錯乱していて、結局は20名ほどしか運べないらしい。大型観光バスがやってきて、昨日と同じように何とか自分の力で歩ける方と、車いすに乗れる方16人をゆっくりゆっくり慎重にバスに乗せ、1時間後には無事に見送った。


午後からは、寝たきりの患者さんたちの移送が始まる。慎重を期して対応しなければと考えた。しかし、あまりの余震が続く中、とうとうエレベーターが止まってしまった。3階、4階の患者さんたちを1階まで降ろし、移送させなくてはならない。ストレッチャーに患者さんを乗せ、みんなで抱えて下に降りた。かなり大変な作業となった。


しばらく作業を続けていると、エレベーターが復旧したとの連絡があったが、余震で外壁にヒビが入り、地下1階に水が溜まっているらしい。間違えてB1Fのボタンを押してしまうと、エレベーターのドアが開いた途端、大変なことになってしまう。慎重に、そして館内全員のスタッフに認知してもらいながら患者さんの移動を再開した。


どうにか1階まで患者さんたちを降ろし、救急車両へ乗せ、15kmほど離れたサテライトかしま(海上保安庁のヘリポートとして使われていた)までピストン輸送を行った。そこから移送先へ空路搬送される予定になっていた。その救急車両には救急隊員が同乗していたのだが、ストレッチャーの使い方もわからない方が少なからずいて、医師、看護師の同乗を求められ、院内では人手不足になってしまった。

思ったほど作業が捗らず、18名程度をヘリに搭乗させる予定が、日没と視界不良で9名のみの搬送になり、ひどく落胆した。後に聞いたのだが、近くの市民病院には100人ものボランティアが入って、自衛隊も一斉にやって来て、すべての患者さんの移送が済んだという。この差はなんなんだろうと、疑問を抱いてしまった。



夕方になると自衛隊のジープが到着した。移送が遅れてがっくりきているときだったので、みんなで声を上げて喜んだ。4人乗りの救急用の車両とヘリコプターも1台まわせるということで、すぐに患者さんの準備を再開した。
搬送用の車両が到着して、さっきのピストン輸送と同じように、看護師さんも同乗しなければいけないかと思ったら、「重症患者さんじゃないんですよね? だったら、同乗していただかなくても結構です。ヘリポートには医師と看護師が待機していますから、そこまでの間は、われわれ自衛隊が責任を持って搬送します。」と言い切ってくれた。
搬送が始まってから初めて聞くこの言葉に、看護師長さんは、はじめて救われた気がしたと涙ぐんでいました。実際、前日に搬送された人で、車の中で亡くなった方がいた。自分が救うべき患者さんを救えなかったのである。そんな葛藤を抱える中で、自衛隊の力強い言葉に勇気づけられた。頼もしい自衛隊の面々に4人の患者さんを委ね、本日の移送は終わった。


ここまで、バスで16名 ・ 救急車⇒海保ヘリで9名 ・ 自衛隊専用車⇒自衛隊ヘリで4名の合計29名の搬送が完了した。

前回へ  次回へ





















移送初日

3月19日

この日から新しいメンバーが合流した。
小学校の先生をしている静岡の池田さん、新宿で公園管理をしている横井さん、千葉で公園管理をしている安田さん、六本木の幼稚園でライフセービングを教えている原さん。心強いライフセーバーたち4名が来てくれた。午前中は、12時頃から始まる移送に備えるための作業を行った。具体的には、食事介助、清拭、体位換え、オムツ換えなどの介護、移送患者の荷物のまとめ、カルテ整理等々、やらなければならないことがたくさんあった。

残されていた患者さんたちのうち、車いすに乗れる人やゆっくりなら歩ける人など、ある程度動ける方65人を、群馬の日赤病院に移送することになっていた。
間もなくして機動隊が使うバス5台が到着したが、シートがすごく固そうで、患者さんたちは大変かもしれない。早速、患者さんそれぞれに用意した名札を首からかけてもらう。そして荷物をビニールに入れて名前を記入し、車いすに乗せて4階、3階、2階から1階まで下ろしていく。名簿順に並び、名前を確認しながら移送者に乗せる。


1台に12~13人乗せ、65人全員を運ぶ予定だったが、乗り込むまでに体調が悪化した患者さん3名を除き、結果62人を転院させることができた。看護師さんたちは、自分の患者さんをバスに乗せると、涙ぐんでいた。


病院に留まった患者さんの一人が、夕方になって心臓が停止してしまった。原君が心臓マッサージを、お医者さんがバックマスクという人口呼吸法を試みた。豊田も途中で交代して心臓マッサージを行ったが、再びおばあちゃんの声を聞くことはできなかった。必死で心臓マッサージをし、最初から付き添っていた原君は、「救えなかった」 と涙を流していた。

前回へ  次回へ